「社会人になるのが怖い」「もう一度会社で働く自信がない」
そんなふうに思っている人は、決して少なくありません。
私も、新卒で入社した会社で心を壊し、その後もいくつかの職場を経て、ようやく「無理しない働き方」を見つけることができました。
本記事では、私自身が経験した会社での苦しさや失敗、そしてたどり着いた今の働き方について、正直にお話しします。
新卒で適応障害に|夢だった出版社で心が壊れた
私は小学校の頃から編集者を夢見ており、大学も文章系の芸術大学に進学しました。
第一志望の出版社には合格しなかったものの、無事に出版社の編集職に内定を決め、納得のいくまま就活を終えました。
ただ、この内定先が人生を大きく狂わせることになってしまったんです。
入社前から見えていた違和感
無事に出版社に内定を決め、大学4年の秋からは、入社前インターンとして勤務が始まりました。
憧れの編集部だったので期待に胸を膨らませていたのですが、実際の環境は、想像とはかけ離れていました。
仕事環境は編集部と営業部が同じフロアで、社長席もありました。
常に社員同士が連携を取れる環境ではあったのですが、上司と部下のやり取りや、社長からの𠮟責も聞こえてきて…。
特に社長からの若手社員への𠮟責が酷く、インターン生の私がいる中でもお構いなしの状態だったので、かなり緊張感がありました。
この出版社は一族経営で、社長や役員が絶対的な権力を握っており、誰も逆らえる状況ではありません。
そして、1ヶ月ほど経ったある日、若い女子社員が突然の退職。そこで「おかしい」と思えば良かったのですが、自分のことで毎日精一杯だった私は、その問題に目を向けている余裕もなかったんです。
内定辞退を考えるも、結局は踏み出してしまった
私がようやく会社の体質を問題視したのは、入社を直前に控えた3月でした。
この時期は「入社前ブルー」になる人も多いですよね。特に、インターンで実態を見ていた私は「次は自分が標的になるのではないか」と思ったんです。
内定を辞退しようかと両親にも相談しましたが、「せっかくの内定だから、働いて様子を見ておいで」と背中を押されました。私としても、せっかく叶えた夢だったので、見切りをつけられませんでした。
ただ、この悪い予感は見事に的中することになります。
入社後すぐに始まった地獄の日々
インターン生の時から打って変わって、入社するとすぐに地獄の日々が始まりました。
編集部の上司は大事にOJTをしてくれましたが、社長はそうもいきません。些細なミスでいびられ、人格否定され、どんどん精神が擦り減っていきます。
次第に他人が𠮟責されているのを見て「次は自分の番かも」と怯えながら仕事をするようになりました。
そして、仕事への集中力が落ち、ミスをして怒られる…といった負のループにハマってしまいました。
また、入社を機に一人暮らしを始めたのも悪手でした。誰にも相談できない環境で、悩みを一人で抱え込まざるを得ません。
同期もいましたが、部署が違ったため、気軽に相談できる相手もおらず…すべてを我慢していました。
適応障害の診断、そして退職へ
そして3ヶ月が経ったころ、その日は突然やってきました。
朝起きたら動きません。不眠が数日続いていたのですが、突然布団から起き上がれなくなりました。
会社のことを考えると涙が出てきて、そこでようやく自分の限界を悟ったのです。
医師からは適応障害と診断され、退職することに。
「やっぱり辞めておけばよかった」と激しく後悔しました。
まさに人生が狂った瞬間であり、今でも、あの時の決断は悔やんでも悔やみきれません。
適応障害で数ヶ月寝たきりに
食事はほとんど毎日同じもので、味覚もおかしくなっていました。食べる意欲もなく、「ただ生きているだけ」という感覚だったと思います。
こうして振り返ってはいますが、正直、適応障害のダメージや睡眠薬の影響もあり、この頃の記憶はかなり朧げです。何もせずに時間だけが過ぎていく生活で、貯金を切り崩しながら、どうにか生き延びていました。
毎日、朝まで眠れず、夕方に起きては、夜中までうだうだと過ごす。そんな日々の繰り返しでした。
だからこそ、あなたには同じような状態になってほしくありません。絶対に無理をしないでほしい。その思いから、このブログを書いています。
友人に誘われた“ベンチャー”も地雷だった
退職してから数ヶ月は、将来のことを考える気力もなく、ただ惰性で日々を過ごしていました。
昼夜逆転、毎日同じような食事、味もよくわからない。それでもなんとか生きていた──そんな状態だったと思います。
そんなとき、大学にインターネットで知り合った友人から「うちの会社で人事の仕事をやらないか?」と誘われました。
その友人とはリアルでの付き合いもあったため、社会復帰のきっかけになるかもしれない、という淡い期待を胸に、話を聞くことにしたのです。
人事部のはずが、実態はねずみ講のような構造
聞いていたのは「リファラル採用を強化しているベンチャーで、人事を任せたい」という話。
キャリアプランを熱心に考えてくれて、スムーズに入社がきまりました。
でも、実際に入社してみると、様子が違いました。
“リファラル採用”と称していたのは、LINEで友人や知人に次々とメッセージを送り、説明会に誘うというものでした。
ほとんど勧誘で、まるでねずみ講のようでした。
働く場所は、都心のオフィスでしたが、仕事が終わると2LDKの部屋に、10人ほどが寝泊まりしながら生活や仕事のミーティングをするという異様な環境。
昼は派遣バイトで働き、夜は社内業務。
なのに、会社で働く給与はゼロ。
「成果を出せば稼げるようになる」という謎の仕組みでした。
耐えきれずに脱出、数年後に会社は消えていた
私はどうしても、友人を“採用”する気にはなれませんでした。
自分が騙されたと感じていたから、他人を巻き込むなんて到底できない。
結局、耐えきれずに「もう無理」と告げ、逃げるようにそこを離れました。
自分は大きく損をしましたが、もっと大事な友人を無くすことにならなくて済んだので、一切後悔はしていません。
ちなみに数年後、その会社は姿を消していました。
かなり大きなベンチャーだったのですが、コロナや事業の影響もあり、一瞬で閉業に追い込まれたようです。
ただ、社長はすぐに別の名前で、別のビジネスを始めていたと聞きます。
辞めて本当によかったと思う一方で、自分の見る目のなさや、逃げるしかできなかったことへの悔しさ、そして将来への不安が、しばらく心に残り続けました。
公務員という安定にも、落とし穴はあった
そこから約1年は、大学時代のアルバイト先のつながりで、フリーのライターとしてなんとか食いつないでいました。
ただ、当時は通院しながらということもあり、なかなかライターとして満足に仕事を受けることもできませんでした。
そんなとき、コロナ禍で業務がひっ迫し、臨時の国家公務員を募集しているという話を聞きました。
任期付きではあるものの、収入も安定しているし、社会的信用もある。
自分を立て直すにはちょうどいいと思い、応募して採用されました。
コロナ禍でチャンス到来。任期付きの国家公務員へ
配属されたのは、コールセンターの管理業務でした。
職場の雰囲気も人間関係も穏やかで、業務の中にやりがいも感じていました。
「ここで頑張れば、安定した未来が開けるかもしれない」。
そう思い、周囲からの後押しもあって、公務員試験の勉強も始めていました。
上司交代がすべてを変えた
ところが、上司が交代してから状況が一変します。
新しく来た上司は年下で、部下にもタメ口。
しかも、女性関係にもだらしがなく、仕事がまったくできないタイプでした。
それでも立場上、誰も何も言えず、結局は責任者であった私がその上司に仕事を回さずに抱え込むようになってしまいました。
理不尽かも?でも真相はわからない
結局その上司が転属してきた年の更新で、私は契約更新に至りませんでした。
「サボってた」とまではいかなくても、自分でも仕事に対する集中力やモチベーションが落ちていたことは自覚しています。
ひとつ言えるのは、現場で問題になっていた上司がそのまま残り、私だけが外されたという事実。
そして、「あの若い子を守るために、外されたんじゃないか」と言われたこともありました。
本当の理由はわかりませんが、上司たちへの不信感と後味の悪さだけが残りました。
退職を機に、フリーライターとして再出発
公務員の契約終了をきっかけに、本格的にフリーライターとして仕事を始めました。
最初は大学時代のつながりから案件をもらい、少しずつ経験と実績を積んでいきました。
初めて「自分のペースで働ける」という感覚を味わい、「働く=我慢」ではないんだと気づいたのです。
現在も大成功しているわけではありませんが、仕事や人間関係のストレスはほとんどありません。
もちろん収入が不安定だったり、孤独を感じることもありますが、それを含めても、私はもう一度会社員に戻りたいとは思いません。
まとめ|「もう、がんばらない転職」があっていい
あのとき会社を辞めていなかったら、きっと心も体も壊れていたと思います。
頑張ることは大切。でも、頑張りすぎて壊れてしまうくらいなら、逃げたっていい。
会社員じゃなくても、正社員じゃなくても、自分に合った働き方は必ずあります。
過去の選択に悩む日もあったけれど、今では「あのとき辞めてよかった」と心から思えます。
だからこのブログを通して伝えたいのは、「もう、がんばらない転職」も選択肢に入れていいんだということです。
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